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こんにちはみそソムリエの川辺です☆彡まだまだ朝晩冷える日が続きますね。朝はやっぱりお味噌汁。僕の朝はいつも、生後三か月の愛犬と遊んでから、美味しいお味噌汁でエネルギーをチャージする”ルーティン”は米に毎日欠かせないです。
今回のブログは味噌の歴史その①です。
日本人にはとっても馴染みの深い、当たり前のように毎日飲んでいるお味噌汁は実は中国から伝来された説もあることを前回のブログで触れましたが、大陸から伝わった発酵技術も様々な試行錯誤を経て日本に根付き、日本独特の原材料と配合によって『味噌』が製造されるようのなってきます。その味噌の日本での歴史に触れたいと思います。それは遠い昔、飛鳥時代までさかのぼります。
飛鳥・奈良時代に遣唐使によって伝えられたとされる古代中国の醤は、大宝1年(701年)に天武天皇が定めた大宝律令の中に『醤院』のせいがあることから。当時の貴族の食生活の中に『醤』というものがあったことがわかります。『正倉院大日本古文書』には、地方から租税として『醤・未醤』を徴収していた記載があり、天平の時代になって庶民の間にも拡がっていたようです。また奈良・平安時代には『醤・未醤』の名前で地方の物産として使われており、この『未醤』という単語は中国の言葉にはなく、『醤』に日本人が手を加えた新しい調味料で、日本人が手を加えた新しい調味料で、現在の『味噌』にあたると考えられています。
平安時代に入ると、日本独自の調味料として『味噌』が登場します。『延喜式』(927年)に、当時の高級官僚には『味噌』は調味料として使うものではなく、食べ物付けたり、なめたり、かけたりして食べられ、また薬としても使われていたようです。当時の味噌はなかなか庶民の口には入らない高級品でした。贈答品としてお役人の家に届けられたという記述も残っているそうです。平安時代中期にに制定された律令の施行細目である『延喜式』には、京都東市の醤屋と西市の未醤屋が記載されています。この頃から京都発祥とされている白味噌が誕生し、甘味が強い白味噌は貴族達に好まれて食されました。甘い物が少なかったこの時代では白味噌は貴重品だったそうです。
『味噌汁』というあたらしい調理方法が誕生したのは鎌倉時代でした。当時の禅宗のお寺では、来日した中国の僧の影響もあってすり鉢が使われるようになりました。『粒味噌』をすり潰したところお湯に溶けやすく多くの食材との相性が良いことから、味噌汁として利用されるようになりました。この味噌汁の登場により、一汁三菜という鎌倉武士の食事の基本ができ、その後受け継がれていきます。しかしまだ武家や僧侶といった特権階級の食事であって、庶民に普及していくのは室町時代になってからでした。室町時代以降は味噌の発展その②でご紹介します。最後まで読んで頂きありがとうございます☆彡